写真が語る戦前の本所
戦後の本所エリアの写真は写真展等で見かけることがありますが、戦前の本所の写真は太平洋戦争で東京下町が空襲で焼けたこともあり、ほとんど目にすることがありません。
本所法人会理事の大塚髙司氏(有限会社つかさ建物)のお父様の大塚高康氏が撮られた戦前の本所の写真を、このたび本所法人会のHPで公開させていただけることになりました。
撮影した場所がはっきり分かっている写真は、比較のために2023年現在の同じ場所の写真を並べました。
これらの写真は疎開していて戦火を逃れることが出来た大変貴重な写真です。無断使用及び無断転載は固くお断りいたします。
菓子街町会の祭り
大正12年の関東大震災の後、昭和3年に神田から製菓産業と関連産業が政府の要請により区画整理された錦糸町に大規模移転してきました。そして同年に現在の町会組織に先立って錦糸町菓子街町会が結成されました。
写真は昭和15年の皇紀2600年のお祭りの様子です。日中戦争の戦時下で太平洋戦争の前年でありますが、賑やかなお祭りの様子が写っています。前列右端の女の子の隣が、金花糖の製造を営んでいた撮影者大塚高康氏のお父様の大塚源太郎氏です。その後の戦災で焼けてしまった山車の上には、製菓の町会らしく桃太郎の人形が見うけられます。
写真は昭和15年の皇紀2600年のお祭りの様子です。日中戦争の戦時下で太平洋戦争の前年でありますが、賑やかなお祭りの様子が写っています。前列右端の女の子の隣が、金花糖の製造を営んでいた撮影者大塚高康氏のお父様の大塚源太郎氏です。その後の戦災で焼けてしまった山車の上には、製菓の町会らしく桃太郎の人形が見うけられます。
四ツ目通りのガード
昭和2~3年頃に四ツ目通りを北側から左奥の国鉄のガードを見た風景です。明治37年までは総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)が千葉方面からの終着駅だったため、本所に倉庫や物流の拠点が作られました。
左の白い建物(現在のロッテシティ)は旧陸軍の糧秣廠倉庫で馬の飼料が保管されていました。右奥の線路土手の向こうに森が見えますが、錦糸町駅の南側には明治45年まで「野菊の墓」で有名な伊藤佐千夫の牧場があり、その名残かもしれません。
左の白い建物(現在のロッテシティ)は旧陸軍の糧秣廠倉庫で馬の飼料が保管されていました。右奥の線路土手の向こうに森が見えますが、錦糸町駅の南側には明治45年まで「野菊の墓」で有名な伊藤佐千夫の牧場があり、その名残かもしれません。
錦糸町(本所)駅
昭和2~3年頃の錦糸町駅の北側の風景です。駅の位置は現在より西側の大横川の近くにあったようです。奥には日本通運の倉庫が見えます。この空き地には昭和43年まで国鉄の操車場があり、現在は再開発され繁華街になっています。
雪の錦糸公園
昭和2~3年頃、雪の日の錦糸公園です。左の柱に「東京市錦糸堀児童遊園」とあります。錦糸公園の土地には明治時代は旧陸軍の兵器支廠倉庫がありました。右の水路は錦糸堀で横十間川まで繋がっていました。
錦糸堀を隔てて建つ大きな建物は旧陸軍の糧秣廠倉庫で馬の飼料が保管されていました。
錦糸堀を隔てて建つ大きな建物は旧陸軍の糧秣廠倉庫で馬の飼料が保管されていました。
錦糸堀を歩く女性
昭和2~3年頃の北斎通りを錦糸堀に沿って和服の女性が歩いています。右の灰色の建物は旧陸軍の糧秣廠倉庫で北斎通り沿いに、いくつか建てられていたようです。
中央の遠方に大きな白い建物が見えますが、時計メーカーの精工舎の東館(現在のオリナスがある場所)と思われます。関東大震災で被災した工場をこの時期に再建しています。
中央の遠方に大きな白い建物が見えますが、時計メーカーの精工舎の東館(現在のオリナスがある場所)と思われます。関東大震災で被災した工場をこの時期に再建しています。
津軽稲荷神社
昭和2~3年頃の雪の北斎通りです。左の鳥居は津軽稲荷神社のもので、現在もその場所にあります。
弘前藩津軽家中屋敷の屋敷神として創建され、旧中屋敷跡地は陸軍糧秣廠となりましたが、稲荷社はそのまま残り「津軽稲荷神社」と呼ばれるようになったそうです。神社の隣に「両国運送店」とういう看板が読めます。
弘前藩津軽家中屋敷の屋敷神として創建され、旧中屋敷跡地は陸軍糧秣廠となりましたが、稲荷社はそのまま残り「津軽稲荷神社」と呼ばれるようになったそうです。神社の隣に「両国運送店」とういう看板が読めます。
長崎橋
昭和2~3年頃の雪の北斎通りを西の方角に見ています。右の奥の方に道が盛り上がっているのが長崎橋で大横川(現在は暗渠になって親水公園)にかかっていた橋です。
右の建物と荷車は、日本通運の倉庫と大八車です。錦糸町駅に貨物で到着した荷物は、荷車で陸送されたり、筏(いかだ)を使った大横川の船運によって東京の各所に運ばれました。
この時代は北斎通り沿いの江戸時代に掘られた水路を、横十間川から長崎橋までを「錦糸堀」、長崎橋から西を「南割下水」と区別して呼んでいたようです。
右の建物と荷車は、日本通運の倉庫と大八車です。錦糸町駅に貨物で到着した荷物は、荷車で陸送されたり、筏(いかだ)を使った大横川の船運によって東京の各所に運ばれました。
この時代は北斎通り沿いの江戸時代に掘られた水路を、横十間川から長崎橋までを「錦糸堀」、長崎橋から西を「南割下水」と区別して呼んでいたようです。
荷車を引く馬
昭和2~3年頃、荷車を馬が引いています。小口の陸送の中心は自動車ではなく、馬が担っていた時代です。後ろの幌に包まれた山は、馬や牛の飼料だと思われます。
手前の石ころだらけの荒れ地を見ても、本所が作物を育てるのには適していなかった土地であったことがわかります。
手前の石ころだらけの荒れ地を見ても、本所が作物を育てるのには適していなかった土地であったことがわかります。
兵隊の行進
昭和2~3年頃に錦糸公園をゲートルを巻いて銃を待った若い兵士が行進していて、子供たちも一緒に歩いています。昭和2年は「徴兵令」が改正されて「兵役法」が施行され、兵役の義務が厳格に管理されるようになった年です。
戦時下ではない時代で、兵士の顔にも明るさが伺えます。右奥の建物は関東大震災後に再建された時計メーカーの精工舎の東館と思われます。
戦時下ではない時代で、兵士の顔にも明るさが伺えます。右奥の建物は関東大震災後に再建された時計メーカーの精工舎の東館と思われます。
木造の白鬚橋
白鬚橋を台東区側から見た風景です。木造の大きな橋が架かって、橋の上には歩く人や荷車を引く馬が見受けられます。
手前には木製の船が係留されていて、対岸には当時あった久野鉄工、高木工業の工場と思われる建物があります。
昭和6年に大林組によって現在の鉄橋に架け変わっています。
手前には木製の船が係留されていて、対岸には当時あった久野鉄工、高木工業の工場と思われる建物があります。
昭和6年に大林組によって現在の鉄橋に架け変わっています。